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タータンチェックとフィドル

スコティッシュフィドルの歴史

スコットランドの音楽は、中世の時代から宮廷の音楽として、王家や貴族たちの手厚い庇護のもと発展してきました。パトロンたちは、音楽家を抱え、中にはフランス人やイギリス人の音楽家もいましたが、多くはスコットランド人のフィドラーでした。この頃の宮廷のダンスは、フランスのものが踊られていました。バイオリンの前身であるヴィオールは宮廷ダンスの中心的な楽器でした。

15,16世紀頃に作られた歌とダンスの曲集は、それらの宮廷の音楽と、民衆の間で耳によって伝えられてきた音楽が共に収められています。人々に親しまれている民族的なエアが宮廷音楽に取り込まれている、このように音楽に貴賤の垣根がないのがスコットランドの音楽の特徴です。

17世紀半ばにバイオリンが発明されスコットランドに持ち込まれると、地元の家具職人たちはすぐにイタリアンモデルとして名高いアマティーとガルネリウスを念入りに調べあげ、生産が始まりました。国産のバイオリンは当時、どの階層の人々でも買うことができるほどの手ごろな値段であったといいます。こうして、18世紀にダンス文化が盛んになると、フィドルはバグパイプと共に、スコットランドの国民的な楽器となりました。

教会によって17世紀に作られたダンスを制限する法律が撤廃されると、中世ルネサンス期の宮廷のフランス風のダンスは、民族的なスコティッシュリールやスコティッシュメジャー、イギリスのカントリーダンス、古典的なメヌエットなどに取って代わられました。

放浪の音楽家による耳伝えの音楽は、スコットランドにも存在していましたが、彼らは記譜をしなかったので、ごく初期のものは、いくつかしか残っていません。18世紀になると、フィドラーたちは、彼ら自身のレパートリーをこまめに記譜するようになり、数多くのコレクションが作られます。これらの曲集はフィドラーたちに家宝のように大事にされました。

イギリスで最初にスコットランドのエアとダンス音楽の曲集が出版されたのを皮切りに、スコットランドでもニール・ガウやウイリアム・マーシャルのような、フィドラー兼作曲家たちによって作られた曲を含む数多くの曲集が出版されます。初期の楽譜は、フィドルまたはジャーマン・フルートで旋律を演奏し、チェロやハープシコードで伴奏をするものでしたが、バイオリンソロの楽譜も登場します。スコットランドの固有のリズムであるストラスペイが発明され、その名が付けられたのもこの時代です。経済学者のアダム・スミス、作家のウォルター・スコット、詩人のロバート・バーンズなどが活躍した、科学と文芸が花開いたスコットランド啓蒙主義の時代を背景に、フィドル音楽が迎えた黄金期は、貴族や領主といったパトロンによって支えられていました。

そんな輝かしいフィドルの時代は1820年代をピークにして衰退し、19世紀に音楽に新しい波がやってきます。ヨーロッパやイギリスからカドリールや、ポルカ、マズルカ、ワルツなどの新しいダンスがもたらされると、フィドラーたちの活躍の場は、城や大邸宅での大舞踏会や祝賀会、式典といった華々しいものから、村の結婚式、暖炉の側、ケーリー、お祭りといった庶民の暮らしの中に移されます。

スコットランドのパスシャー地方(ローランド)では、貴族による援助が続いていましたが、「ストラスペイの王様」ジェームズ・スコット・スキナーの登場によって、フィドルの舞台は、スコットランドの北東部に移ります。ジェイムズ・スコット・スキナーは、素晴らしいクラシックバイオリンのテクニックを持っており、クラシック音楽の演目と伝統曲を組み合わせてオーケストラと共演したり、アメリカでツアーを行い成功したり、録音を多く行ったりして、スコットランドの音楽を広く世に紹介しました。彼の作った数多くの曲とその音楽は、当時のアイルランドのフィドラーたちにも影響を与えました。

20世紀にはフィドル音楽の人気は衰えます。2つの大戦があり、アメリカからロックンロールが到来し、ラジオやテレビの普及によって娯楽も様変わりしました。けれども、民族意識の高まりもあって、徐々に音楽の状況は変わってきます。そのような中でも、フィドルの伝統は、優れたフィドラーたちによって途切れることなく引き継がれていました。

宮廷風のカントリーダンスは、1923年に設立されたロイヤル・スコティッシュ・カントリー・ダンス協会(RSCDS)の努力によって見事に復活しました。しかしながら、残念なことにダンスの伴奏はフィドルからアコーディオンにその座が奪われてしまいました。

60年代にはフィドル・コンペティションが大盛況になるなど、若い世代が伝統の音楽に取り組むようになり、フォークリバイバルと続くワールドミュージックの波に乗って、スコティッシュフィドルへの関心が世界中から寄せられています。